レッド・メモリアル Episode20 第1章



 《ボルベルブイリ》における激しい首都攻撃が行われてから一か月後。
 『WNUA軍』は『ジュール連邦』に対してその勢力を拡大し、すでに首都のほぼ全てを手中に
収めていた。『ジュール連邦』の国会議事堂が破壊されたことによって、『WNUA』は、『ジュー
ル連邦』の政治の中心を支配する事に成功して、その国土に影響力を及ぼしていた。
 現在、『ジュール連邦』には、西側諸国と通じた新大統領が配置されており、社会主義制度を
廃止する事で動いていた。
 さらに『WNUA軍』は、『ジュール連邦』が影響を及ぼしていた、周辺諸国に対しても、その勢
力を拡大しており、すでに『ジュール連邦』傘下にあった、数か国を影響下に収める事に成功し
ていた。
 すでに静戦は終了し、世界の東側にあった脅威は排除されたものと、『タレス公国』のカリスト
大統領は発表していた。実際、旧『ジュール連邦』の政治体制は崩壊しており、その残党狩りも
行われている所だったのである。
 もはや、『ジュール連邦』という国は存在していないも同然。新政権の樹立も間近に迫ってき
ていた。
 そんな中にあっても、カリスト大統領の懸念は尽きなかった。『ジュール連邦』内で暗躍してい
た男、ベロボグ・チェルノは死亡したものと報告されていたものの、彼の組織の残党の勢力が
身を隠しており、まだどこかで活動を続けているという、諜報員からの報告が相次いだ。
 一方で『タレス公国』に対して、鉄槌を振り下ろしたような、ベロボグ・チェルノの自信は、忽然
と姿を消してしまった。
 そして、《イースト・ボルベルブイリ・シティ》での抗争は依然として続いており、静戦は完全に
終わったとは言い難かった。
 例のロボット兵らが、この《イースト・ボルベルブイリ・シティ》を守るかのように配備されてお
り、『WNUA軍』はこのロボット兵ら相手に苦戦を強いられてしまっていた。ロボット兵は、一体
一体が戦車のようなものであり、また用意周到であり、暗躍をした。
 《イースト・ボルベルブイリ・シティ》における軍事侵攻は思うように進まなかった。『WNUA』側
としても、この地だけは何としても収めたかった。何しろ『ジュール連邦』の中で最大の経済都
市でもあったのだから、ここを手中に収めることで、経済的にも東側諸国に優位に立てるの
だ。
 これも、ベロボグ・チェルノの行った計画だ。彼らはこの《イースト・ボルベルブイリ・シティ》を
守る何かの理由があるのだろうか。
 静戦はまだ終わっていない。あのベロボグ・チェルノの勢力を完全に破壊するまでは、戦争
は終わることは無いのだ。

『ジュール連邦』『WNUA軍』駐屯地
γ0080年5月11日

 『ジュール連邦』の首都、《ボルベルブイリ》の中心からそれほど遠くない、元政府官舎を利用
して、『WNUA軍』の情報部の臨時施設が設置されていた。この地を利用して、『WNUA軍』は
よりこの東側の世界の支配を完璧なものとしようとして、活動していた。
 アリエル・アルンツェンはこの地に、ベロボグ・チェルノの組織に関する重要参考人として、拘
留されていた。
 拘留されていたと言っても、依然としてこの『ジュール連邦』内に残る急進派テロリストのよう
な扱いとは違う。それほど広くはないが、宿直室のような場所に拘留されているだけであった。
 アリエルは、ベロボグの娘という事、そして、ベロボグ・チェルノに関する情報をもっともよく知
る人物として、重要参考人として、保護されているという扱いが正しい。彼女は秘密裡に行わ
れているという拷問をされることもない。ただ、長時間における事情聴取が行われる事はあっ
た。
 しかし軍側も、彼女が精神に深いダメージを負ってしまっているという事が分かると、事情聴
取はあまりする事はなく、彼女を拘留、というよりもむしろ保護するという形になっていた。
「今日も、ほとんど何も食べていないのですか?」
「ええ、最近ではほとんど口をきくことも無くなってしまいましてね」
 部屋の外から聞こえてくる声がある。アリエルは狭い部屋、そうは言っても刑務所のような牢
獄ではなく、ワンルームアパートの一室のような部屋であったが、そんな部屋にいたまま、まる
で虚像の中で過ごしているかのような一か月を過ごしていた。
 全てが、一か月前の一週間ほどの時間で変わってしまった。実の父親、そして母親との再
会。しかしながらそれはアリエルにとってみれば、全てが悲劇となってしまう出来事であったの
だ。
 その一週間は一体何であったのか。今のアリエルにとっては、それは現実味を持たない空虚
な存在であるかのように思えた。
 本当に、実の父親や、母親などいたのだろうか。シャーリや、レーシーという子が姉妹であっ
たのは、本当の事だったのだろうか。今では、父も母も、そしてシャーリ達もアリエルの前に姿
を現さなくなってしまった。だからそれを確かめることなどできないのだ。
 アリエルは全てを失ってしまった。この『ジュール連邦』という巨大な大木が折れると共に、ア
リエルも何も失ってしまったのだ。
 今では空虚のような存在。中身の何もない、ただのからっぽの箱ともいえる存在として、た
だ、やはり箱のような部屋に押し込められ、生きているだけに過ぎない。
「アリエルさん」
 そのように言って、部屋に入ってきたのは、アリエルもすでに顔なじみになっている、西側の
世界からやって来た、心理カウンセラーの女性だった。年頃は40代といったところだろうか。
『WNUA軍』に所属しているカウンセラーであるらしく、この戦争で、心理的にダメージを受け
た、軍の兵士のみならず、『ジュール連邦』で戦火に巻き込まれた子供や、大人のカウンセリン
グを行っているのだという。
 そして、アリエルもその対象の一人だった。
「今日は、何の用事でしょうか?」
 アリエルは、何ともそっけない声でそのように言っていた。
「今日は、あなたに大切な話を持ってきたの」
 カウンセラーはそのようにジュール語で言ってきて、狭い部屋の中へと入ってきた。
 扉が閉じられると、そこは、プライベートな空間となる。刑務所とは違って、外から誰にものぞ
かれる事は無い。ただ、窓は開かないようになっており、アリエルをここから出さないように保
護されている。
「私に、大切な事なんて一体何が?」
 その言葉通りだった。アリエルにとってみれば、もはやすべての出来事が意味を成さなくなっ
てしまっている。戦争の事も、世界の事ももはやどうでも良い事だった。
「いいえ、大切な事だわ。あなたは、自分の出生の事を知らないままにしておいてよいの?」
 と、尋ねてくる。だが、それさえも、今のアリエルにとってはよもやどうでも良い事だったのだ。
出生の事を、今更知ったところで、一体何が起こるというのだろう。もはや何も起こることは無
い。ただ、空虚のような毎日が続いていくだけだ。
「もう、大分分かっている事です。これ以上知らなくたって構いませんよ」
 アリエルは、またしても空虚な声でそう答えるだけだった。
「そう。でも私は、きちんとこの事をあなたに話すように言われて、ここにやって来ているの。だ
から、話すだけは話しておくことにしておくわ。それに、これをきちんと受け取ってもらわないと
いけない」
 そう言って、カウンセラーは少し大きな紙袋を持っていた。デパートの大きな袋ほどはあっ
て、中には様々なものが入っているらしく、それが音を立てていた。
「それは何ですか?」
 奇妙なものを持ってきたカウンセラーに、さすがにアリエルも興味を惹かれた。彼女が持って
くるものと言えば、たいてい、簡単な書類程度でしかなかったのに、そのような大きな入れ物を
持ってくるなど、あまりにも珍しかった。
「これは、あなたの本当のお母さんの方の遺品よ。きちんと、あなたの弁護士にも許可を取っ
て持って来ている」
 弁護士、とはアリエルも数回しか会っていない人物だった。一応、西側世界の法律上、軍が
拘留するからには、専属の弁護士が付かないといけない決まりになっているらしい。だが、今
のアリエルにとっては、このカウンセラーの方が、よほど弁護士らしい存在だった。
「遺品…」
 アリエルは思わずそう言っていた。彼女は紙袋を受け取るが、それは結構重いものだった。
「ええ、セリア・ルーウェンスさんの所持品よ。彼女は遺言も何も残していなかった。だから、そ
れを受け取るのは、実の娘であるあなたという事になる」
 アリエルはその紙袋を床に置いて尋ねた。
「という事は、もう判定は出たという事なんですか?」
「正確に言うと、あなたの血液検査と、セリアさんの軍での検査結果を照合するだけで良いの
よ。だから、あなたとセリアさんが、実の親子だという事はすでに証明できていたわ。だた、話
す機会が無かったの。この遺品が纏まって、あなたと会う時が一番良いと思っていたのよね」
 遺品。母が残したというもの。生前に持っていたものとしては、この紙袋一つではあまりにも
少なすぎるかもしれない。
 自分の方がよほど沢山のものを持っている。これではあまりにも少なすぎてしまう。
 母はどんな人だったのだろう。アリエルは考えた。実の母に直接会ったのはほんのわずかな
時間でしかなく、しかも交わした言葉さえ、母国語のものではなかったのだ。実の母がどのよう
な存在なのかという事さえ、アリエルにはほとんど知りようも無かった。
 だが、この遺品さえ見れば、母の事が何か分かるかもしれない。彼女の残したわずかな遺品
から、それを知ることができるのかもしれないのだ。
「ああ、あと、それからね」
 カウンセラーは、アリエルにさらに付け加えてきた。
「やっと、あなたの育ての方のお母さんと会えるように手配できたわよ。突然すぎて申し訳ない
けれども、もうこの施設に来ているわ」
 その言葉に、アリエルははっとした。
「私のお母さんが?」
「ええ、育ての方のお母さんよ。彼女も事情聴取で何度かこの施設に来ていたんだけれども、
あなたに会わせる許可が下りなかったのよ」
 カウンセラーのその言葉に、アリエルは、何かを注ぎ込まれたかのようだった。それは生命
の力なのか、それとも何なのか。ただ、とにかく今まで完全に無気力の底へと落ちていたアリエ
ルを突き動かすには十分なものだった。
「すぐにお母さんに会わせてください」
 アリエルは思わず立ち上がってそのように言った。

 母と対面できるのは、施設内に設けられた部屋の一つだった。これでアリエルが放免になる
かと言ったらそうでもないらしく、まだ、完全に事情聴取が終わるまで、そしてアリエルの保護と
いう意味で、しばらくはこの施設にいなければならないらしい。
 それはアリエルの育ての親である、ミッシェル・ロックハートも同様だった。
 ベロボグの組織は壊滅したと見込まれているが、まだその残党が活動している可能性があ
るという。『ジュール連邦』が、ベロボグ・チェルノもろとも完全に『WNUA軍』によって制圧され
るまでは、アリエルもミッシェルも保護される必要がある。それは彼女らの自由にできない事だ
った。
 だから、アリエルとミッシェルが一か月ぶりに対面する事になる部屋も、決して居心地の良い
ような部屋ではなかった。
 そこはあたかも、刑務所の面会室のような所であり、『WNUA軍』の見張りらしき者に見張ら
れたままでの面会だった。
 アリエルはそこで、一か月ぶりに養母と再会した。彼女は自分で立っており、一か月前、ベロ
ボグ達の手によって、脳の移植手術をさせられた時よりも、ずっと元気になっているようだっ
た。頭の包帯も取れており、元気そのものと言えた。
 母と対面したときに、まずアリエルがした事は、彼女との抱擁だった。ただ、自分の本能がそ
うするがままに、アリエルは母と抱擁を交わした。
 黙ったままの行為だった。しばらく、アリエルは無言のままに母との抱擁を交わし続けた。
 そしてやがて言葉が出てくる。
「お母さん…」
 涙ぐんでいたのか、何かの感情が現れていたのか、アリエルには分からなかった。だた、彼
女はすでに感情に身を任せる事しかできないでいた。
「私、私は…」
 アリエルはそのように言いかけている。だがそれを、養母は制止するかのように言ってきた。
「いい。いいのよアリエル。あなたはもう十分に頑張った。だから、あなたはもうこれ以上頑張ら
なくていいのよ」
 ミッシェルはそのように言って、アリエルをぐっと抱きしめた。もう彼女を手放さない。そう言わ
んがばかりに、アリエルは養母に抱きしめられていた。

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