レッド・メモリアル Episode20 第6章



 リー達がアリエルとミッシェルを狭い部屋に入れ、持ってきたものは、最先端のコンピュータ
デッキと、一人の女だった。
 その女はアリエルも知っている。セリア・ルーウェンス、つまりは自分の母親と一緒にいた、あ
の眼鏡をかけた女性だ。レッド系の人種で、いかにもオタクといったような印象の女性である。
「フェイリン。完成したかね?」
 そう言いながら、リーはコンピュータデッキを持ってきたその女性に尋ねた。
「これを完成という事ができれば、ですけれども。やっぱりどうやっても完璧な読み取り装置は
作れないようです」
 それは手の内に収まるほどの大きさのデッキで、黒く作られたシンプルな箱のようなものだっ
た。あまりにもシンプルな箱すぎて、それは逆に不気味な姿にさえ見える。
「あなたが、アリエルね」
 フェイリンはそのようにアリエルに言ってきた。そして、コンピュータデッキはその場に置き、
彼女に目線を合わせてタレス語で言ってきた。
「あなたの事は良く知らなかったけれども、セリアの事は、大学時代からの友達だったの。だか
ら、その、あなたの気持ちは私も良くわかる。とても残念だわ」
 フェイリンはアリエルにそう言うのだった。母の友人。アリエルはそう聞かされて彼女の事をど
う思っただろうか。アリエルは自分の実の母について、有人さえも知らなかったはずだ。
「私の本当のお母さんは、どんな人でしたか?」
 学校で習ったものなのだろう、たどたどしいタレス語でアリエルは尋ねた。
「そうね。とても強い人だったのは確か。だから死んだなんて信じられないわね」
 フェイリンはそう言うのだった。少しデリカシーが無いかのような喋り方だ。リーは思わずそこ
で咳払いをして話を中断させてしまった。
「すまないんだが、今はそういう話をしている時ではない。早くこの装置が作動するかどうかを
試したく思う」
 リーはそのように言って、アリエルをコンピュータデッキの置かれた前のパイプ椅子に座るよ
うに促した。
 アリエルは、まるで目の前に何か畏怖するものがあるかのような足取りで、パイプ椅子へと
座るのだった。
「このデッキが?私の中に埋まっているものを作動させるのは、本当ですか?」
 アリエルはそのように尋ねてくる。その装置を作動させる事に、まだ戸惑いを感じているのだ
ろう。何しろ、自分の脳に埋め込まれている得体のしれないようなものだ。実際にリー達もそれ
が作動するところを見たことは無い。ただ、ベロボグが組織に残した資料でそれを知っている
に過ぎないのだ。
「まだ、試しようが無いのだがね。とりあえず、君の父親が残した情報を元に、試作的に作った
に過ぎないんだ」
 そのリーの言葉が、アリエルの養母の警戒心を強めさせてしまったのだろうか。ミッシェルは
彼女の手を取って言うのだった。
「アリエル。まだ、止めることもできるのよ」
 だがアリエルは止めようとはしなかった。逆に、黒色のコンピュータデッキの前に手を乗せ、
それが自分を推す何かであるかのように見つめる。
「やってください。それが私を先に進めるためにあるのなら」
 アリエルは静かにそう言った。それは確かな自信があって言う言葉の口調ではなかった。彼
女はまだ戸惑っている。
「では、やりますよ。正直のところ、本当に作動するかどうかは分からないんですけど」
 フェイリンはそう言った。彼女の方が自信がなさそうだ。
「いいから、やってくれ。試すだけの価値はあるだろう」
 リーがそう言ってフェイリンを促すのだった。
「では」
 フェイリンはそう言って、コンピュータデッキのスイッチを入れるのだった。

 アリエルには果たして、目の前に置かれたコンピュータデッキのスイッチが入れるという事
が、自分にどのような影響を及ぼすものか分からなかった。
 スイッチが入れられても、最初は表紙が抜けたかのように何も起こらなかった。狭い留置場
のような部屋に入れられているために息苦しくもなりそうだった。
 だが、だんだんと、アリエルは自分の目の前に靄にも似たイメージがわいてくるのだった。そ
の靄のようなイメージは、だんだんとはっきりとしたものになっていく。
 やがてそのイメージは、はっきりと具現化した光学画面をアリエルの目の前に作り出した。
「誰か、光学画面を広げたんですか?」
 アリエルはそのように尋ねた。だが、皆が何もわかっていないようだった。
「アリエル。君は今、何を見ている?」
 リーはそのように尋ねてきた。
「光学画面ですよ。でも、こんなものは見たことが無い。OSが知らないものです」
 OSなんて専門的な言葉を自分が使って良いのかわからなかったけれども、アリエルは自分
が見たままの姿をそのように言い現わした。光学画面というものは、アリエルはそれほど見た
ことがあるわけではない。先進国に比べれば、まだまだ情報技術開発の遅れている『ジュール
連邦』では光学画面という形で表示されるコンピュータが、軍や企業などでしか取り入れられて
おらず、一般家庭にはそのようなものがない。
 だが、アリエルは養母の元で、光学画面のあるものを操った事がある。養母は田舎のログハ
ウスの中に住んでいたものの、こうした先端技術は取り入れていた。どうやら、かつての軍時
代のコネで手に入ったようである。
「それで、その画面には一体、何が表示されているんだ?」
 リーはそのように尋ねてきた。
「これは、おそらくログイン画面ですね。そのように表示されています。それで、私の名前がユ
ーザー名として登録されています」
 目の前に展開した画面を見たままにアリエルはそう答えた。
「では、ログインしてくれ。そうすれば中の情報を見ることができるだろう」
 リーの指示に従い、アリエルはその画面を動かそうと手を伸ばそうとした。しかしながらその
必要はどうやら無かったらしい。
 ログイン画面は、アリエルが手を伸ばし、何かを入力しようとした瞬間にログインをしてしまっ
た。これは、手を動かして操作をするコンピュータではありえないような出来事だった。
「これは一体?」
「どうしたんだ?」
 アリエルは戸惑った。ログインを始めた光学画面は、再びそこに新たな画面を形成してい
き、作り上げていく。赤が基調になっていて、まるで赤い部屋の中に入れられたかのような感
覚をアリエルは味わった。
「何も入力していないのに、ログインしてしまうなんて。まるで勝手に動いているようです」
 アリエルはそのように言うのだが、
「いや違う。それでいいんだ。君の中に埋まっている生体コンピュータというものは、君の脳と
直結している。だから、君の意志通りに動くんだ。今まで私達が使ってきたコンピュータというも
のは、あくまで手で情報を入力しなければ動かない。それは、機械とコンピュータが分離してい
るからだ。
 だが、この『レッド・メモリアル』は君の脳と直結している。だから、手を動かす必要が無い。必
要なのは意志だ。意志があれば、その『レッド・メモリアル』を幾らでも動かすことができるだろ
う」
 リーはそのように説明してくれた。だが、意志があればと言われても戸惑ってしまう。という事
は、このコンピュータは自分が思った通りに幾らでも動かすことができるという事なのだろう
か。
「じゃあ成功しているのか?」
 そうリーに尋ねているのは、タカフミだった。
「起動させる事はできた。だが、どれだけの時間安定させる事ができるかどうかは分からない」
 そのような会話がアリエルの背後でしてきた。
 だがアリエルは、何もこの作業に苦痛を感じることなく進めることができた。基本は普通のコ
ンピュータと何も変わる事は無い。アイコンが空間に浮かんでいて、光学画面ではそれを指さ
したりして展開させていく事になるのだが、アリエルはそれを意志だけで展開する事ができた。
 だが、アリエルの前に展開している画面は、早く言うならばからっぽと言えるものだった。から
っぽ、そう中には、ほとんど何もない。幾つものソフトが入れられているようだったが、そのどれ
もが旧式のものだった。
 買いたてのコンピュータがそこに展開しているようだ。
 しかしながら、そのどれもが少し旧式に感じられた。これは新しいコンピュータではない。
「これは、最近のコンピュータではないようですね」
 アリエルは見たままの感想をそのように述べるのだった。
「ああ、そうだろう。これは君がもっと幼い頃に埋め込まれたものだから、入っているソフトなん
かは全て旧式のものとなっているはずだ。アップロードもされていないコンピュータでは仕方が
ない」
「そうですか」
 とはいっても、コンピュータがそのまま一つ、自分の頭の中に入っていたのだと思うと、アリエ
ルはますます戸惑った。
 しかし、この『レッド・メモリアル』というものは操作してみればみるほど、面白いものだという
事が分かった。
 何でも思い通りに物事を動かすことができることの快感とは、このような事を言うのだろう。ア
イコンの展開やカーソルの移動、そしてソフトウェアの操作なども全てアリエルが思った通りに
する事ができる。
 手を全く動かすことなく、アリエルはどんどんそれを進めることができた。ネットワークに入ろう
と思えば、簡単にネットワークの中に入る事ができ、アリエルは、あたかも泳ぐかのように世界
中に広がっているネットワークの中に飛び込むことができた。
 それだけではない。全てがビジュアルの街のように展開しており、アリエルは電子の海の中
に入る事ができている自分を感じている事ができた。
「アリエル、アリエル」
 そこに突然声が聞こえてきて、アリエルははっとした。それはリーの声だった。
「大丈夫か。楽しそうだが」
 確かに彼の言う通りだ。アリエルは自分が楽しんでいるという事を自分でも理解していた。父
が作ろうとしていたものはこんなものだったのか。それは感心さえ抱けそうだった。
「そろそろ、危険域に入りそうです。これ以上安定させるのは難しいかも…」
 フェイリンの声が聞こえてきた。その声はどことなく自信が無いかのようだった。
「そうか。アリエル。君の『レッド・メモリアル』の中には、君の父に関する情報が何か含まれて
いるはずだ。まずは、中を調べてみよう。君のメモリの中に検索をかけてみるんだ」
 リーがそのように言って来る。どうやら、この『レッド・メモリアル』の中に身をゆだねていられ
る時間は限られているようだった
「はい」
 アリエルは言われたとおりに、検索ウィンドウを自分の意志で出し、そこに自分が思った通り
に、自分の父親の検索をかけてみる事にした。
 だがその検索結果は見事なまでに0件だった。それはあまりにもおかしいくらいだ。父がこの
『レッド・メモリアル』を作った人物だというのに、その装置の中に検索をかけても名前の一つさ
え出てこないのだ。
「アリエル、どうだった?」
 リーはそのように尋ねてくる。
「駄目です。不思議な事に、父について検索にかけても、一切出てこない。これは、父が作った
ものなんでしょう?だというのに、一切、情報が出てこないなんて」
 そのようにアリエルは言った。やはり、この『レッド・メモリアル』というものを試すだけ無駄で
あったという事なのだろうか。
「いや、いいんだ。ベロボグがそれだけ、情報を残さなかったという事だろう。じゃあ、ネットワー
クの方に検索をかけてみよう。その『レッド・メモリアル』からでもアクセスできるんだろう?」
 リーはそのように言ったのだが、
「今時、ベロボグに関する情報は、ネットワーク上にゴロゴロ転がっているだろう?何しろ、連
邦の総書記を処刑したテロリストって事で、世界一番の有名人だろうからな」
 タカフミが背後から指摘してきた。確かに、彼の言う通りだろう。
「やってみるんだ。もしかしたら、アリエルの『レッド・メモリアル』からアクセスをする事で、何か
情報が得られるかもしれない」
「向こうも警戒している。アリエルからのアクセスがあったっていう時点で、接続を切られるかも
しれないぜ」
 リーとタカフミが言い合っている。だが、アリエルの決意はすでに決まっていた。
 アリエルはネットワークにアクセスし、そこに父親の名前を入力してみる事にした。ベロボグ・
チェルノ。その名前を心に思い、はっきりと意志するだけで、名前の入力をする事ができるよう
になっている。
 検索結果は凄まじい量だった。それこそ、マスコミからの情報だけではなく、個人が運営して
いるサイトなど、ありとあらゆるところの検索結果が現れて、膨大な情報がアリエルの脳をかけ
めぐった。
 その情報の洪水は、アリエルが頭の中で処理を仕切れないほど凄まじい量だった。彼女は
それに頭がついていかなそうなほどだと思った。
「そろそろ、オーバーヒートしてしまいそうですよ」
 読み取り装置の前にいるフェイリンがそう言ってきた。そこまで危険な状態なのか。アリエル
はそう思ったが、父親の情報を求めて、電子の中を疾走していこうとする。そうすれば自分が
追い求めている所へたどり着くことができるはず。そう思っていた。
「アリエル。そろそろ危険だ」
 そのようにリーは言い、アリエルを制止しようとするが、
「いえ、良いんです。私が確かめないとならない」
 アリエルはそう言って、更に電子の渦へと呑みこまれていこうとしていた。そこには記号や画
面、そして光が織りなす洪水のような世界だった。そんな世界へと自分が呑みこまれていくの
を感じる。
 だが、それだけでは足りない。まだ、何か決定的な何かが足りないような気がしていた。そこ
でアリエルは検索ワードを追加する事にした。
 そこには自分の名前、アリエル・アルンツェンを入力する事にした。それしかない。アリエルは
何かに突き動かされるかのように、自分の名前を追加で入力した。ベロボグ・チェルノと、アリ
エル・アルンツェン。この二つの名前を入力して検索にかけようとした。
 だが、検索が始まるのよりも早く、アリエルは自分が見ている画面の別の扉が開くのを見て
取った。それは、検索をかけている膨大なデータの、さらに向こう側からやって来た大きな扉だ
った。
 それは光の網のようになっていた部分だが、それが、アリエルの名前を入力した途端に扉の
ように開きだしたのだ。
「一体、何が?」
 アリエルはそのように口に出していた。更に向こう側にある画面は今までアリエルの前にやっ
てきていた、画面の洪水を押し流していってしまう。あたかもそれが不必要なものであるかのよ
うに、どっと外へと流していってしまった。
「アリエル、何が起きている?」
 そのように尋ねてきたのはリーだった。だが、アリエルには彼の顔や姿は見えない。代わり
に、妙な音が自分の耳に響き渡ってくる。その音はかなり大きなものとなり、不協和音だった。
非常に聞き苦しい音だった。
 だが、その音に合わせて、アリエルは、光の網の向こうへと移動していこうとしていた。そこ
は、今まで封鎖されていた禁断の扉であるようだったが、今、解放されていた。アリエルはその
中へと入っていこうとする。
 周囲を見回してみた。いつの間にかアリエルは立ち上がっており、その中へと自らが足を踏
み入れようとしていた。
 周囲は電子の海でできている。そして頭には不協和音が鳴り響く。この音さえなければ、じっ
くりとこの電子の海の中を観察したい。だが、音が頭を割っていくかのようだった。凄まじい音
が響き渡る。
 それはこの扉のずっと奥からやってきているようだった。電子の空間の奥に行こうとすれば
するほどに、その激しい音が響き渡って来るかのようだ。
 アリエルは進もうとしたが、あまりにも音が激しすぎる。だが、彼女はこの更に奥に何がある
のかを見たかった。この先にあるものこそ、非常に重要なものだ。
 音と共に、やがて、電子の向こうからやってくるものがあった。それはいくつもの画面だった。
 何かを示している文章や、立体の光学画面。それはどこかの施設を表しているようだった。さ
らに地図や、何かの機械の図面。そして、人々の写真が載せられた書類が、光学画面に載せ
られてアリエルの前へと流れてくる。
 これは一体何なのか、アリエルは顔を上げてそれを確かめようとする。だが、音が凄まじかっ
た。今では金切り音のような、さらにサイレンのような音がアリエルの頭の中で響き渡ってい
る。
 アリエルは電子の世界で足をついてしまい、この音に頭を抱えだした。
「アリエル。戻ってこい。戻って来るんだ!」
 そのようにリーの声が聞こえてきた。どうやら体を揺さぶられているようだったが、アリエルは
どうやってここから戻っていったらよいのかが分からない。
 だが、ここに父に繋がる何かの手がかりがあるはずだ。そうアリエルは思っていた。これは、
父と自分の名前を入力して出てきた検索結果だ。
 ここには、父の手がかりを探るための何かがあるはずだ。この膨大な検索結果は、父が求
めているものがあるはず。
「アリエル。アリエルよ」
 やがて、激しい不協和音の向こうから、雑音に紛れたような父の声が聞こえてくるのだった。
何かに遮られているかのような電波の音。それがアリエルの方に聞こえてくる。
「あ、あなたは」
 アリエルは何とか頭を上げてその声が聞こえてきた方向を見る。
 すると、目の前の光学画面に、あの父の姿が映し出されていた。だが、画面全体がノイズの
ようなものに紛れてしまっていて、父の姿はとぎれとぎれになってしまっている。
「アリエルよ。君が進むべき道をこれから示そう」
 光学画面に現れた父はそのように言い、どこかへと歩んでいこうとする。それは本当の父、
ベロボグ・チェルノの姿ではなく、虚像、ただの電子の画面が作り出している存在でしかないと
いう事は分かっている。だが、父はこのプログラムを自分の生体コンピュータの中に残した。そ
れには意味があるはずだ。
 アリエルは、未だに聞こえてくる音に頭を抱えながらも、父の後を追おうとした。
「アリエル。危険な状態だ。早く戻ってこい」
 聞こえてくるリーの声。だが、アリエルは進むしかなかった。進んで、父が示そうとするものを
知らなければならない。その使命感がアリエルを突き動かしていた。
 父は、電子の海の奥地へと向かおうとしている。周囲を流れている画面が一体何を示してい
るのか、アリエルはそれを探ろうとする。
 病院の姿、どこかの施設の姿。アリエルはそれを知っている。父が自分を連れて行った施設
ばかりだ。その他にも、『ジュール連邦』の国会議事堂の姿などもある。
「これは、我々が推し進めてきた計画だ。全てが、一つのところに結ばれるためにある」
 父はそう言ったのを、アリエルは雑音に紛れてきいていた。雑音は更に強くなってきている。
それにしたがって、父の声も聴きづらくなっている。
「これは一体、あなたは何を言いたいのです?」
 アリエルはそのように言った。その言葉が父に届くはずもない。今、目の前にしている父の姿
はあくまで虚像であって、それに問いかけようとしてもそれは無駄だ。
 だから父はプログラムされたコンピュータのように、アリエルに対して一方的に話しかけてくる
のだった。
「そして…、が、全てを…する。この地、北緯…」
 そう言って来る父の声。同時に、ノイズに紛れて何かが表示されようとしている。その表示が
何であるのか、アリエルは目を凝らしてみたが、はっきりと分からない。
 どうやら地図であるようだった。
「おい、アリエル。もう危険だ!」
 それはリーの声だった。だが、あともう少しで何かがつかめそうな気がする。もう少しで、父の
重大な出来事が手に入るに違いない。
「戻ってこい、アリエル」
 そのような声が聞こえたが、アリエルは構わずに進もうとしていた。父が指示している地図の
表示。アリエルはそれを心に刻もうとした。だが、情報量が多い地図であって、世界地図のよう
なものに情報や座標が書き込まれていて、それを記憶する事ができない。
「いいんだ、アリエル。もういい!」
 リーの声。だが、アリエルはすでに自分を戻す事ができないでいた。この電子の海の中に落
ち込んでしまって、戻ろうとしても戻る事ができない。
 アリエルは背後を振り向いたが、そこにも電子の海が広がっているだけだ。しかも今では激
しいノイズや画面が歪んでいるために、そこには電子の渦のようなものが広がっているばかり
だった。
「どうしたら」
 アリエルはそのように呟いていた。だが、その時、ぷっつりとアリエルの周りの電子の画面が
崩れていった。それは電子画面を消した時のように一気に消えていくという姿だった。
 その瞬間、アリエルはバットで殴られたかのような激しい頭痛を右の側頭部に味わった。実
際、彼女の体は殴られたかのように座った椅子から放り出され、床へと倒れこんでいた。
「だから、危険だって、いきなり電源を切るのは!」
 遠くの方からそのように聞こえてきたのは、フェイリンの声だった。
「アリエル。アリエル。しっかりしなさい!」
 そう言って倒れた自分の体を揺さぶってくるのは養母の声だった。アリエルはまだ頭の中に
頭痛を残しつつも、目を開き、母の姿を見ることができた。
「お母さん…」
 今の衝撃は凄まじいものがあったが、アリエルの意識ははっきりとしていた。
「ああ、良かったわ」
 母はそう言って自分の体を抱きしめてくる。もう決して離さないと言わんばかりにしっかりと抱
きしめてきた。
 しかし次には、リー達の方をしかと見て彼らにはっきりと言うのだった。
「これで分かったでしょう?もうこれ以上、この子に危険な真似はさせないわ」
 そう言われて、フェイリンは戸惑っているようだった。テーブルの上に載せられた黒いコンピュ
ータデッキからは煙が上っていて、何か焼け焦げた臭いが聞こえてきている。装置がショートし
てしまったのだろうか。
「どうしようと何も、もうコンピュータがこんな状態じゃあ無理ですよ。やっぱり、不完全な状態だ
ったんです」
 と言って、自分はまるで悪くないと言わんばかりだった。
 アリエルの身を起こすのは、母だけでなく、リーも手伝った。
「大丈夫か。横になった方が良いか、それとも何か水でも持ってこようか?」
 リーが気遣ってきてくれる。
「え、ええ。それよりももう少しで、あと少しで大切なものが見えたような気がした。いいえ、見え
ました。父の姿が、コンピュータの中にあって、彼は何かを言おうとしていた。それだけじゃあな
くって、どこかを示した地図も出てきていて…」
 アリエルがそう言いかけた時、
「それって、もしかしてこの地図の事か?」
 タカフミがアリエルの背後から、何やら印刷された紙を持ってきた。その紙に描かれているの
は赤い色をした世界地図と、グリッド線、そして何かを示しているデータだった。
「ええ、それです。でも、これは一体、どうやって?」
 まだ頭痛が残る中、アリエルは尋ねた。
「さあ、そこに置いておいたプリンターが勝手に印刷を始めたんだ。アクセスがあったのは君の
生体コンピュータからだ」
 タカフミはそのように説明してくれた。だが、それはどういう事だろうか。頭を抱えるしぐさをす
るとリーが言って来る。
「君が意識的にこれを記憶の中に残そうとしたせいだろう。生体コンピュータは、それを操作す
る人間の意志によって自在に操れる。他のコンピュータには入れたり、アクセスしたりする。だ
から、プリンターに無線接続をして、表示されたものを印刷する事は造作もないはずだ」
 そう言って、リーはタカフミから印刷された紙を受け取った。
「うむ。これはどうやら座標のようだ。どこかの施設を指し示している。ベロボグと何かの関わり
合いがあるかもしれない」
 リーはすぐに納得したようだった。
「父は、そこに何か重要なものが隠されていると、そう言いたげなようでした。そして私を導こう
としているかのようで…」
 アリエルはそこまで言いかけたが、
「いいのよ、アリエル。あなたは十分にやった。だからもうこれ以上、あの人のいう事になんて
惑わされないで」
 ミッシェルはそう言って来る。だがアリエルは彼女のいう事に従うつもりはなかった。これは自
分に与えられた宿命だ。父が自分の中に生体コンピュータを埋め込んだ時から、彼の元に向
かわなければならないという事はすでに決められていた事なのだ。
 まだアリエルは口に出す事はできなかったが、まだ自分のすべき事は終わっていない。そう
確信していた。

 シャーリは何かを確信したように頷いていた。
 彼女は光学画面の前に立ち、そこに一つの表示が現れ、画面が展開していくのを、ほんの1
5分間ほど見守っていた。そしてそれが終わった時、彼女は椅子から立ち上がるのだった。
「お父様」
 ある施設のコントロールルームにいるシャーリ達。そこでは依然として作業が進められてい
る。
 シャーリはそのまま父の座っている椅子の方まで歩いていき、彼に向かって言った。
「思った通りですわ、お父様。アリエルが『レッド・メモリアル』を使い、ここにアクセスしました」
 それを聴くと、ベロボグも何かを感じたかのように頷いた。
「そうか、それは良かった。そして、アリエルはここに来そうか?」
 するとシャーリは満足したかのような表情を見せてベロボグに言うのだった。
「ええ、もちろんですわ。アリエルはここに来ます」
「して、シャーリよ。どうやら君も、その『レッド・メモリアル』を使う時がやってきたようだな」
「ええ、そうですね」
 シャーリはそう言って、満足げな表情を見せるのだった。シャーリは自分の頭のある部分に
触れる。そこには、『レッド・メモリアル』が埋まっているはずだった。
 彼女もついにこれを使う時がきたのかと実感をする。
Vol.6
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―Ep#.21 『中枢』―

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