レッド・メモリアル Episode10 第4章



《アルタイブルグ》近郊
1:13 P.M.



 セルゲイ・ストロフは、黒塗りのSUV車に乗り、ある場所を目指していた。《ボルベルブイリ》
を出発し、山間部を抜け、内陸の街へと向かっている。
 それも、大勢の部下を引き連れてだ。『ジュール連邦』でも指折りの部隊を無理矢理引っ張り
出し、ストロフは今度の作戦に望んでいた。
 目標は『チェルノ財団』。彼らが、『タレス公国』側へのテロ攻撃をしたと言う事はまず間違い
ない。それを制圧に行くのが彼らの目的だった。
 『チェルノ財団』は東側の国にテロ攻撃を仕掛けることができるほどの力を有している。しか
も、『グリーン・カバー』という大手企業をテロ活動に協力させるほどの影響力さえ持っているの
だ。
 『チェルノ財団』を一代にして創設した人物、ベロボグ・チェルノの居場所はストロフ達が突き
止めた。それは《アルタイブルグ》の『チェルノ財団』が事前目的の為に設立したと言う民間病
院。
 事もあろうか、『チェルノ財団』は、慈善という本来の目的を利用し、病院にテロ活動の本拠
地を構えているのだ。
 テロリスト達がどのような悪どい手を使ってこようと、ストロフは構わない。今までにもっと悪ど
い手段ならばいくらでも見てきたのだから。今更病院をテロ活動の本拠地に使っていようと何
であろうと、ストロフは動揺しない。
 だが、一つ気にかかっている点があった。
 何故、病院なのか?
 潜伏することができるような施設やアジトは幾らでも立てることができるはずだ。だが、何故、
『チェルノ財団』は病院をアジトに取っているのか。
 ストロフは、何度も『チェルノ財団』についての情報を調べさせた。表向きの情報から裏の情
報まで。所属している医師や、入院している患者まで全てを調べさせた。
 だが、病院として特に不思議な点は無い。『ジュール連邦』や西側の他の国に比べて、非常
に発達した医療技術を有している。と言う点は、確かに特筆すべき点だ。
 『チェルノ財団』が莫大な資金を有しており、それこそが、『チェルノ財団』の地位を高め、政
府からも一目を置かせていると言う事にある。
 そして、ストロフは一人の男に着目し、その男についても徹底的に素性を調べさせていた。
 ベロボグ・チェルノという人物。この男こそが、チェルノ財団の全てを総括し、たった一代にし
て全てを築き上げた人物でもある。
 経歴を見る限りは特に不審な点は無いと言っていいだろう。この『ジュール連邦』ではもっとも
知名度の高い、ボルベルブイリ国立大学の医学部を卒業し、市内の病院に医師として何年も
勤務をして、幾つかの賞をもらっている。
 特に脳医学の専門家としてその地位を高めた。35歳の時、彼は病院から独立し、自分の病
院を立てた。そこから『チェルノ財団』が始まったのである。
 元は、現在、ストロフ達が向かっている、《アルタイブルグ》のチェルノ記念病院が全ての始ま
りだ。その地から次々と系列の病院を『ジュール連邦』国内の主要都市、周辺諸国、更には、
西側の国にまで展開をして、莫大な利益を上げ、『チェルノ財団』は巨大化していった。
 あの『ゼロ危機』と言われた、人類史上最大の大災厄の時でも、当時発展途上だった『チェ
ルノ財団』はその活躍を見せた。最大の被害をもたらした『NK』そして、《帝国首都》の特別行
政区の被災地に数多くの医師団を派遣し、『スザム共和国』における避難民キャンプにも積極
的に協力している。
 その災厄から23年経った今、『ジュール連邦』国内のどの企業よりも力を付けた『チェルノ財
団』が、何故、慈善活動からテロ活動へと移っていったのか。
 全ては、ベロボグ・チェルノという人物の思惑なのだろうか。
 ベロボグ・チェルノは現在59歳。出身は『スザム共和国』。彼が大学に入る直前に『ジュール
連邦』に移住してきている。
 彼は長らく独身だったようだが、40歳の時に結婚している。だが、彼が42歳の時、子供がで
きてすぐに妻が病死している。子供は女児で、今だ生存している。
 子供はどうしているのか。生きているとすれば17歳となっている。ちょうど高校生というわけ
だ。
 高校生となったベロボグの娘は、父親がテロ活動を行っている事を知っているのだろうか。
 ベロボグの子供のデータに付いてもきちんと、国家安全保安局は抑えていた。《ボルベルブ
イリ市内》の高校に通っている。特に犯罪歴などは無い。
 ストロフ達が調べた限りでは、ベロボグ・チェルノという人物自体には特に問題点はなさそう
だった。
 だが、『タレス公国』側の調べによれば、確かにこの『チェルノ財団』こそが、西側諸国で多発
しているテロ事件の重要な資金ルートになっているのだ。
 ベロボグという男の目的は分からない。もしかしたら、ベロボグという男自身さえも、自分の基
金から金が漏れ出している事を知らないのではないのか、とも考えた。
 だが、それはあり得ないだろう。何しろ、『タレス公国』の首都で町一つが建設できるほどの
巨額の金だ。
 そんな金が、テロ事件が起こっている今まで漏れ続けていると言う事は、間違いなく、ベロボ
グという男は、自分の資金が外部に漏れている事を知っている。
 そして一連の事件の首謀者である事は間違いない。
 ストロフ達はだからこそ、部隊を率いて、『チェルノ財団』の本拠地とされている《アルタイブル
グ》の『チェルノ記念病院』へと向かっていた。
 『チェルノ財団』ほどの巨大な組織に、政府が手出しをするともなれば、それは決して簡単な
事では無い。
 ストロフ達の部隊が動くためには、まずは上層部の下す規則に沿って動かなければならな
い。それに、上院議会からの出動命令が無ければ動く事も出来ない。もしそれに従わなけれ
ば、責任を問われるのはストロフであり、国家安全保安局自体の信用を落としてしまう事にも
なる。あくまで、国安保局は政府の組織であり、『ジュール連邦』の政府そのものなのだ。
 特に今回の事件のように、『タレス公国』にまで跨る事件であった場合は、議会の命令がなけ
れば、ストロフ達は闇雲に動く事さえできない。
 何しろ、これは戦争沙汰になるかもしれない事だからだ。
 『タレス公国側』そして、『WNUA』は、ここ数カ月の間に起こってきたテロ事件を、『ジュール
連邦側』が引き起こしたものだとすでに証拠を上げてきている。
 あってはならない事は、その証拠自体が、『ジュール連邦』政府と、『チェルノ財団』を結びつ
けてしまう事だ。
 『チェルノ財団』を、ストロフ達『ジュール連邦』の政府が摘発し、制圧し、テロ活動を止めさせ
ることができれば、戦争を食い止めることができる。
 上院議員達が重い腰を上げたのは、もし西側『WNUA』側と戦争になるような事になれば、
まず勝つことができない事を分かっているからだろう。
 ストロフもそれは理解している。現在の国の財政状態や、軍の力は、『WNUA』側に比べて
みればかなり劣る。
 つまり、戦争を引き起こす事は、その戦争の負けを意味し、この国自体の崩壊をも意味して
いる。政府に身を置いている以上、ストロフにとって、それは何としても避けなければならなか
った。
 東側諸国に巨大な影響力を持ち、今だその支配と共産主義勢力を有しているのだと言う事
を、国民や周辺国家に誇示し続けることが、『ジュール連邦』の役割だ。
 それを、国内の組織一つによって覆されることなどあってはならない。



 《アルタイブルグ》に入ったストロフ達。彼らは政府のSUV車に乗り込み、部隊隊員達と共に
街並みの中を進んでいく。
 この街の住人は、自分達の街の中にテロリスト達がいると言う事を知らない。しかもそのテロ
リストのアジトが病院などとなっては、一般人にとってはテロ活動の存在など、知る由もない。
 《アルタイブルグ》に入り、車を進めていくストロフ達のSUV車の中で、突然、彼の携帯電話
の呼び出しが鳴った。
 ストロフは他の部隊員と同じようにSUV車の後部座席に詰めていたが、部下に会話を聞か
れていようと構わず、呼び出しに出た。
 かかってきた電話は、ストロフの上司である、国家安全保安局の副局長だった。
 ストロフは音声のみの通話をするべく、携帯電話を耳に押し当てた。
「ストロフ捜査官。君は部隊を総動員して、『チェルノ財団』の摘発に乗り出そうとしているようだ
な?」
 何の前置きも無しに副局長は言ってくる。その事に関しては彼と何度も会話をしたはずだ。
今更何度も持ち返される動議はない。
「ええ、『タレス公国』他、『WNUA』側はすでに臨戦態勢です。もし、『チェルノ財団』が西側でこ
れ以上テロ攻撃を続けさせるならば、『WNUA』は私達を敵としてみなすでしょう。いいえ、もう
見なしている!」
 だからこそこうして完全武装で『チェルノ財団』に乗り込もうとしているんじゃあないかと、スト
ロフは言葉をつけ加えたかった。
(だがな、君が提出した作戦司令によれば、『チェルノ財団』の本拠地は民間の病院じゃあない
か。もし一般に被害が出るような事があれば…)
 またしても、『チェルノ財団』への捜索活動に難色を示す副局長にやれやれ、とストロフは思
う。
 理由は分かっている。『チェルノ財団』は、政府に対しても影響力を持つほどの組織だ。上院
議会の何人かは、『チェルノ財団』を擁護しようとしているのだろう。中には金で買収されている
議員もいるのかもしれない。
 その議員から、副局長は圧力をかけられている。
 そしてもしかしたら、副局長さえも、『チェルノ財団』から買収されているかもしれなかったの
だ。
 とはいえ、ストロフは副局長の命令を無視してまで、『チェルノ財団』摘発の任務を遂行する
つもりは無かった。だから何としてでも彼に、今回の任務のゴーサインは出させた。
 しかし内心、ストロフは彼をも疑っていた。
「一般への被害は最小限に抑えるつもりです」
 とりあえずストロフは副局長の命令に答える。だが、
(君の作戦司令によれば、空爆命令を軍に出しているぞ)
 副局長は信じられないというような口調で言って来る。
「ええ、空爆命令は出しましたよ。ただ、それは最後の手段です。いいですか?相手はテロリス
トなんです。脱税をしているとか、そう言ったレベルの話じゃあない。ヘタをしたら戦争になるか
もしれない。我々はそんな状況下にいるんですよ」
(ああ、分かっているさ。だが、もし一般への被害が出たりしたら、その責任は君が取るんだ
ぞ。分かっているな?)
 その副局長の言葉にストロフは半ばあきれたかのように答えた。
「戦争が始まったら、責任何て言っていられませんよ」
 と言ってストロフは自分から電話を切った。どうせ、これ以上会話をしてもロクな答えが返って
こないだろう。それに、作戦司令はすでに降りている。
 撤退命令が出ていないのならば、自分達は行動するだけだ。
 ストロフは電話機をしまい、SUV車車内にいる部下達を一瞥して言った。
「いいか。上司の命令に逆らえとは言わん。だが、上の連中や、議会の連中は現場と言うもの
を知らない。上から何と言われていようと、我々はこの任務を成功させる。それが、戦争回避
に繋がるんだ」
 部下達はストロフの言葉に呼応するかのように頷いた。
 さすが、国家安全保安局が保持している特殊部隊だけある。軍から引き抜いた兵士もいれ
ば、警察の特殊部隊にいた者もいる。戦闘技術は申し分ないし、上からの命令には絶対服従
だ。
 その彼らを指揮し、同時に議会からの命令にも従わなければならない自分は、果たしてどち
ら側の人間であろうな、とストロフは思う。
 しかし、今自分がすべきことは決まっていた。
 一連の事件の黒幕、ベロボグ・チェルノを確保することだ。できれば生かして捕らえたい。



「お母さん!お母さん!しっかりして!」
 アリエルは必死になって母に呼びかけ、彼女の容態を気遣う。二人は病院の天井裏にいた
ままで、アリエルの目の前で、ミッシェルは全く反応が無くなってしまった。
 はっとしてアリエルは天井裏の隙間から、下の病院の廊下を覗きこんだ。
 ほっと安心するアリエル。今、思わず大きな声を出し過ぎてしまったのではないかと思ったか
らだ。
 今、天井裏の下には、アリエルとミッシェルを探し出そうとしている者は誰一人もいない。シャ
ーリの部下達の姿も見られないし、病院の医者も患者も見られない。
 だから、今、思わずアリエルが出してしまった大きな声も聞きとられてはいないだろう。
 だが、アリエルの心配は募った。母に呼びかけても一切反応が無い。天井裏の暗い中では、
母の顔色をうかがう事もできないし、容態さえも分からない。
 まさか、と思い、アリエルは天井裏で大きな音が立ってしまうのを承知で、素早く母の体を乗
り越えていく。
 まるで這って進んでいくように天井裏の狭い隙間を、先に進ませていたミッシェルよりも前に
出たアリエルは、彼女の顔色を伺った。
 暗がりで顔は良く見えない。だが、呼吸はしている。弱弱しい音ではあったが、確かにミッシェ
ルは呼吸を続けていた。
「大丈夫、私は、大丈夫」
 続いてアリエルの耳元で聞こえてきた母の声で、彼女はほっと一安心した。手術直後の体で
ある母を動かしてしまったせいで、取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと思っ
たのだ。
「良かった。本当に、良かった」
 アリエルはほっと一安心した。
 だが、そんなアリエルをよそに、ミッシェルは言って来た。
「そうでも、無いみたい…。さっきよりも頭痛が酷くなってきている…。もしかしたら、もっと安静
にしていなきゃあ、いけないのかもしれない…。何しろ、私は頭に何かされたみたいだから、ね
…」
 天井裏でひそひそと話してくるミッシェルの声は、確かに何かの痛みにこらえているかのよう
だった。
 無理もない。ミッシェル自身は麻酔で眠っていて知らないはずだったが、アリエルは知ってい
る。彼女は頭に、細いドリルではあったが、確かに脳に達するほどの穴を開けられ、どこかの
部分を切除された。
 それもその手術はほんの2、3時間前に行われたばかりなのだ。
 アリエルも所詮は高校生。手術による肉体の回復がどれほどのものかなどと言う事は知らな
いし、母ミッシェルの脳にどれほどのダメージがあるのかも分からない。
 だが、脳の手術を受けたばかりの人間が、こんなには早く体を動かして良いものではないは
ずだ。
 少しでも早く、母を休ませてあげなければならない。できればゆっくりと休むことができる場所
だ。
 アリエルは再び天井裏にあった排気口から病院の廊下を覗きこむ。アリエルとミッシェルの2
人がいるのはどうやら倉庫のような場所らしく、天井下には誰もいない。
 ここが、シャーリ達のいないただの病院だったら良かったのに、とアリエルは思わず口を噛み
しめた。
「いいのよ、アリエル。わたしの事は…。あなただけ逃げればいいの…」
 アリエルのすぐ傍で、その声と共に出される呼吸の音が聞こえるくらいはっきりとした近くで、
母の声が聞こえてくる。
「な、何を言っているの。お母さんを置いてなんていけないよ」
 アリエルの声が大きくなる。だがそれは今、天井下の倉庫に誰もいないからできる事だ。
「いいえ、私を一緒に連れだそうとしても、きっとわたしはあなたの足手まといになってしまう。こ
の病院からはあなただけが脱出することができればいい。わたしは、奴らに掴待って、適切な
処置なりをしてもらえればいいでしょう?」
 と、ミッシェルはアリエルに言ってくる。だが、それはアリエルにとって納得ができるような事で
は無かった。
 確かにここは病院だし、もしミッシェルだけ出ていけば、彼女は医師達によって適切な治療を
受けさせてもらうことができるかもしれない。
 だが、それは本当に“治療”なのだろうか?この病院の医師達はミッシェルの脳に対して、何
かをした。
 アリエルもその光景は目の当たりにしていたから良く分かっているが、少なくともそれは“治
療”などではない事は分かっている。
 これ以上、あの医師達。そして、父と名乗ったあの男の前へと母を差し出せば、何を彼女に
されるか分かったものでは無かった。
 だから、何が何でもアリエルはミッシェルをこの病院から連れ出したかったのだ。
 しかしミッシェルは言ってくる。
「わたしをこのままここから連れ出して、一体、どこに連れて行こうと言うの?アリエル?この病
院を脱出することができたとしても、わたしを別の病院へと連れて行こうと考えている?それは
駄目よ。この病院と…、あの男達が何者か知っているの? 彼らは、政府にも匹敵するほどの
力を持ち…、私設の軍隊さえ所有している、巨大組織なのよ。おそらく、わたしが病院に連れ
込まれたら…、あっという間に発見されるわね」
 母の声がとぎれとぎれに聞こえてくる。おそらく、頭の痛みが増しているのだろう。話している
だけでも辛いのかもしれない。
「でも、私はお母さんをここから連れ出す。今はその事しか考えていない」
 アリエルは、確固とした決意と共にそのように言うのだった。
 その言葉をミッシェルはどのように思ったのだろうか?アリエルは、母が、何か鼻で笑ったか
のように聞こえた。
 そんなに滑稽な事を言っただろうか?アリエルは思う。
「でも、どうすれば良いのか、私には分からないよ。ここは病院だけれども、入って来た時と違
って、今はまるで要塞のような警備になっているみたい。お母さんを連れてここを脱出すること
ができるっていう自信が私には正直、無い…」
 下の倉庫を覗きこむアリエル。その倉庫には今は誰もいないけれども、すぐにでも誰かがや
ってくるかもしれない。
 それはシャーリの部下であっても、病院の医師か看護師であっても駄目だった。この病院に
いる誰かに発見されてしまう事で、アリエル達の脱出は失敗する。
「医者か、看護師に変装するとか」
 と、呟くアリエル。するとすぐに背後からミッシェルの言葉が帰ってくる。
「駄目ね。あなたのその真っ赤に染めた髪はあまりに目立つし、追っ手達は私達の顔を知って
いるんだから…」
 やはり駄目かとアリエルは思い、再び口を噛みしめた。ここから脱出するにはどうしたら良い
のか、さっぱり見当もつかない。
「アリエル…、そこの倉庫…、リネンは置いてある…?」
 と、突然、アリエルの後ろから声が聞こえてくる。
「リネン?」
 母の声を確かめるかのように、倉庫の中にリネンが置いてあるかどうかを確認するアリエ
ル。
「袋の中に包まれているリネンじゃあなくって、洗濯かご見たいなものに入れられているリネン
よ」
 アリエルは天井裏の隙間から、母に言われたようなリネンを探し出そうとするが、棚の上に置
かれているものは、ビニールの袋に入れられた、丸められたリネンだけだった。
「いえ、無いけれども」
 アリエルは母の思惑がまだ分からないままに答えた。
「そう…。でも、リネンがあるって言う事は、近くにその回収する場所もあるはず…。それを探す
わよ…」
 ミッシェルはまだ頭が痛むらしく、時々、声を呻かせていたが、天井裏にいる2人は早速行動
することにするのだった。



「まだ発見できないの!」
 病院の廊下の中にシャーリの声が響き渡った。彼女はショットガンを片手に持ち、物々しい
姿で、自分より何歳も年上で屈強そうな体を持つ部下達に命令を飛ばしている。
「病院内をくまなく探していますが、まだ2人の姿を発見することはできません」
 シャーリの部下はそんな彼女に対して、無機質な表情で答えた。
「全く!まだ、病院の外には逃げていないはずよ!必ずアリエル達は、この病院の中のどこか
にいるはずなんだから、何としても探し出しなさい!」
「シャーリ様」
 とシャーリが言い放った時、別の彼女の部下が、呼びかけてくる。
「何よ!」
 シャーリは苛立ったような表情と声で彼へと目を向けた。その眼は怒りと焦りに満ちている。
「医師や患者がこちらを見ています。早く見つけなければ、彼らに気づかれてしまうでしょう」
 声をひそめて言って来たその部下は、病院の廊下にいるシャーリ達を見つめてくる医師や患
者の方を向いて言った。
 シャーリ達は、病院の廊下の中でも非常口に近い場所におり、そこにはあまり患者も医師も
近付かない場所だったが、さすがにシャーリ達が騒がしく動いているせいで、注意を引いてしま
っている。
 ましてシャーリが片手に持っているショットガンはあまりに目立っていた。彼女はそれに初め
て気づいたように、自分の背後の目立たない場所へとそのショットガンを隠そうとする。
「くっ。早く奴らを見つけ出せば解決するのよ。さっさと手分けして探しなさい。天井裏も地下室
も、洗濯かごの中も探しなさい」
 と、シャーリがそう言った時だった。
「ねえ、シャーリぃ〜」
 緊張の糸も張りつめていたシャーリ達の間に、突然割り入ってくる緊張感の無い声。それ
は、シャーリの義理の妹であるレーシーのものだった。
 彼女のまるでジュール人形であるかのような姿は、この場においてもあまりに異彩を放って
いた。
 そんな病院の廊下にも、シャーリ達の間にもあまりに不釣り合いな彼女がシャーリの元へと
近付いてくる。彼女は、シャーリのお父様の元にいたはずだ。
「レーシー。あんたがここに来るって事は、お父様に何かがあったの?」
 と、シャーリはレーシーに尋ねた。彼女がここに来ると言う事は何かを伝えに来たはずだ。
「ううん。お父様は大丈夫だよ。お医者様の話では、何だか、こう、一時的なショック状態になっ
ただけだからって」
 というレーシーの言葉は、いつものように、子供が遊びの中で話すかのように緊張感の無い
ものだったが、彼女の言葉にシャーリはほっと胸をなでおろした。
 さっきは、お父様の容態が急変してしまい、シャーリも父に対しての心配で胸がいっぱいだっ
たが、レーシーの言葉にほっとさせられた。
 どうやら、お父様の容態は持ち直したらしい。これで、アリエル達を探す事に専念できる。そう
シャーリが思いかけた時、レーシーは更に言葉を続けてきた。
「でもね。お父様がすぐに戻るようにって言っているよ」
 レーシーは、何の変哲もないかのような顔をしているが、彼女の言葉にシャーリは耳を疑っ
た。
「何ですって?お父様が、本当にそんな事を?」
 信じられないといった口調で答えたシャーリの言葉に、レーシーは答えた。
「何でもね。この病院に“例の人達”が近づいてきているから、すぐに戻るようにって言っていた
よ」
 レーシーの言った、“例の人達”という言葉に、シャーリは反応した。その言葉が何を意味して
いるかは、シャーリは良く知っていた。
 お父様がすぐに戻ってくるようにと命じている事も理解することができる。
 だが、レーシーの姿越しに見える病院の廊下を見つめて、シャーリは少し考えた。
 この病院のどこかに、まだ必ずアリエルが潜んでいるはずだ。彼女と、その母親を見つけ出
す事を、お父様が望んでいるはず。そして、何よりもシャーリ自身が、アリエルを逃したくは無
かった。
 あの娘には、嫌と言うほど思い知らせてあげなければならない。例え、お父様の命令があろ
うと同じ事だ。
 シャーリは少し考えた挙句、レーシーに尋ねた。
「その“連中”が到着するのは、どれくらい後だって、お父様が言っているの?」
 と、尋ねると、レーシーは、少し自分の頭を指でたたき、まるで頭の中から情報を引き出すか
のようにして答えた。
「正確には、17分55秒後。もちろん、プラスマイナス1分くらいの誤差はあると思うよ。道路の
交通状況にもよるけれども、この時間はこの街は渋滞も無いだろうし」
 レーシーは答えてくる。この娘の体内には、レーシー自身の『能力』によってコンピュータが融
合されており、それが脳に直結させられている。それが、どのように接続されているのかは分
からなかったが、レーシー自身が、人間コンピュータのような存在である事は確かだ。
 だから、レーシーの話している言葉は、ポータブルの情報端末を持ち歩いているように確か
な情報だ。
 コンピュータとの違いと言えば、彼女が見た目そのもの、子供のような個性と人間性を持って
いるという点だろう。
 コンピュータや兵器と融合し、それを彼女自身が持ち歩く事ができ、操作する事もできるとい
う点は、お父様も重宝していたが、今のシャーリにとって、レーシーの話す個性的な言葉は余
計なものでしかなく、情報だけが欲しかった。
「17分。10分前になったら言いなさい。あと7分もあれば十分。あの娘を探し出してやるわ。お
父様には黙っていなさい」
 と、シャーリはレーシーに加えて言い放つ。レーシー自身が、携帯無線機の役割も果たす以
上、余計な事をお父様に知られるのはまずかった。
 お父様がシャーリの行動を知れば、すぐに自分の元に戻り、“あの連中”がやってくるよりも
前に、自分と共に病院から脱出するように言うだろう。
 だが、それはシャーリ自身が納得することができなかった。あのアリエル親子をみすみす逃
がしてしまうようなものなのだから。
「でも、シャーリぃ。すぐに戻らないと、お父様が怒るよ?」
 と、レーシーはいつもながらの口調で言って来た。確かにそれは事実だろうが、あと7分は大
丈夫なはず。お父様にはバレない。
「いいえ、お父様の元に戻るのは、アリエル達を見つけてからよ。それまでは、皆、あいつらを
探し出すことに専念するの。レーシー!赤外線探査で、この病院を隅々まで捜すのよ。できる
でしょう?すぐにやんなさい」
 シャーリは病院の廊下にも響き渡るような声で言い放ち、レーシーに命じた。
 レーシーの体の中には、こんな事もあろうかと、赤外線スコープが埋め込まれているだけで
はなく、広域の赤外線探査装置も埋め込まれていた。
 彼女自身の意思によってそれらの装置を動かすことができ、この病院ほどの規模の建物内
ならば、即座に赤外線での映像を、彼女は見ることができる。
「分かった。やるよ。ほら、シャーリも携帯端末で、この建物の立体映像を見ながら付いてきて
よ」
 と、油断なくレーシーは付けくわえてきた。そのくらいの事は分かっている。シャーリは自分の
上着から手に収まるほどの携帯端末を取り出し、そこから立体映像を出現させた。
 彼女の前の空間に、この病院の立体映像が出現する。線だけで表された建物の見取り図と
して出現し、広い病院内の全てを見通せるようになった。
 その立体映像は、よく見ると、幾つもの白い人影が動いていることが分かる。それが、レーシ
ーが赤外線探査で探査した人の姿だった。
 赤外線は波長が長く、壁を透過して向こう側を透かして見てしまう事ができる光だ。レーシー
の眼の中にその探査機は仕込まれており、彼女が見ているものは、全て赤外線で透過して見
えてしまう。
 だが、病院の中には、シャーリの手元の映像が見せているだけでも、百を超える人間が動い
ている。
 この中から7分程度の時間で、アリエルとミッシェルを発見できるのか、シャーリは考えを巡ら
せた。
「レーシー。各階の天井裏を拡大して見せなさい」
 と、シャーリが言うと、レーシーは何も答えず、シャーリの見ている立体画面を制御し、各階の
天井裏の赤外線探査映像を見せてきた。
 シャーリの携帯端末だったが、映像を送ってきているのはレーシーで、画面の操作も彼女が
行う必要があった。
「天井裏にいるのは、鼠とか、小動物だけで、人の影は無いよ」
 どうやら、すでにアリエル達は天井裏に隠れているわけではないようだ。シャーリの見ている
立体映像にも、拡大された各階の天井裏にいるものは、小さく動いている粒のようなものばか
りで、それは換気ダクトなどに住みついたネズミなどだろう。
「全ての階には部下を配置したはずよ!一体、どこに逃げたって言うの!」
 シャーリが再び声を上げた。
「落ち着いて、シャーリ。もう、病院から逃げちゃったとは考えられないの?」
「馬鹿な!この病院の出入り口は、真っ先に固めたのよ。監視カメラで確認だってしている!
逃げたのだったらすぐに分かるはずだわ!」
 と、レーシーが落ちつけようとしても、シャーリはいても立ってもいられなくなってきていた。
 シャーリは自分でもはっきりと自覚している。自分の何よりもの欠点は、すぐに熱く、感情的
になってしまう点だという事を。特に、アリエルの事になると、ついカッとなってしまう事もある。
 あの娘のせいで、お父様の計画を台無しにでもされたら。そう思うと駄目だった。
 しかもあのアリエルは、お父様の実の娘でもあるのに。
 もしかしたら、アリエルが、シャーリ自身と同じ、お父様の血を分けた娘だからこそ、余計に苛
立ってくるのだろう。
 アリエルと言う存在がいると言う事自体が、シャーリにとっては我慢ならない事だった。
「落ち着いてよシャーリ。監視カメラの映像もしっかりとチェックして」
 と、レーシーは言い、シャーリの携帯端末に病院内の監視カメラの映像を送ってきた。レーシ
ーは病院内の警備システムと直結し、全ての監視カメラの映像を見る事ができる。シャーリに
送られて来た映像は、病院内の廊下、病室、一般外来の待合室、そして、今はがらんとした手
術室などだった。
 監視カメラからの映像をじっと見つめ、シャーリは考えを巡らせた。
「ねえ、レーシー。この監視カメラで写らない場所はどこ?監視カメラで監視をしていない部屋
もあるでしょう?」
「倉庫とか、トイレの中とかは監視をしていないけど」
 そのレーシーの言葉にシャーリは、赤外線探査を行っている立体映像の方に目をやった。
 各階にはほぼ同じ場所に、トイレや、入院患者用の備品倉庫があり、シャーリは映像の上か
ら順に目で追う。
 すると、2階上の小さな部屋に、2人が固まっている映像が映っていた。
 病院の医師や看護師かもしれないし、患者かもしれない。だが、調べる意味はあった。2階
上にいる部下に向かって、シャーリは無線を使って指示を飛ばした。
「3階の北西の備品倉庫の中にいるわ!わたしが行くまで、2人を逃がさないようにしなさ
い!」
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