レッド・メモリアル Episode16 第5章



 アリエルの頭を包みこんできた暖かい感触は、やがて彼女の頭の奥深い所にまで浸食して
いった。
 それは不快にも、痛みにも感じられるものではなかった。むしろぬるま湯の中にいるかのよう
な心地よさを感じさせるものだった。
 アリエルはその心地よさに身をゆだねていき、やがては睡眠にも似たような感覚へと体をい
ざなっていく。
 ゆっくりと、丁寧に。父親の言葉に間違いは無かった。

「お父さんは、どうしていつも一緒にいてくれないの?お父さんは、わたし達と一緒に暮らしてく
れないの?」
 言葉が聞こえてきていた。その言葉は明らかに自分から発せられた言葉だった。しかも声は
幼い。幼いアリエルの声だった。視点も低く、手足もまだ小さい。そんな幼いアリエルが見上げ
ている父親は、巨人の様な体躯を持っていた。
 アリエルはこの場所を知っていた。記憶のどこか奥底にある。
 そこは養母であるミッシェルと小さな時に住んでいた、ログハウスの家で、《ボルベルブイリ》
の郊外の森の中にある村の一つだった。
 住みやすく、ここでは『ジュール連邦』特有の極端な低気温にはならない。森は一部分が開か
れており、庭園が広がっていた。
 アリエル達が小さな頃は、その村には何軒かの家が建っており、子供達もその庭園で遊んで
いたのだ。
 庭園には春には花も咲き、こじんまりとした花畑も広がっていた。
 そんな庭園とログハウスが立ち並ぶ風景の中、切り株で作られたベンチの中に座り、アリエ
ルとベロボグはいたのだ。
 この場所は知っていたが、アリエルは、この場所に父親がいるという事を知らなかった。
 自分は生まれてから一度も、そう、ちょうど数日前に病院で死に瀕している父親と対面するま
では、父親に会って来なかったはずだ。
 しかしながら幼いアリエルには、彼に対して恐れと言うものを感じていなかった。ずっと生まれ
た時から知って来たかのように、父親の存在を知っている。
 アリエルにはその時に感じていたであろう、感覚、感情でさえ、感覚として伝わってくる。自分
自身がそっくりそのまま、その時へと戻ってきてしまったようだった。
 アリエルはそのまま身をゆだねる。いつほど昔かは知らないが、子供の頃に戻ってしまった
自分の感覚に身をゆだねていくのだ。
 今よりも幾分か若く、体格も更にたくましい姿をしているベロボグが、アリエルの小さな手に触
れて言ってくる。
「お父さんには大切なお仕事があるんだ。分かるかい?世の中にはアリエルと同じ可愛い子供
なのに、とても困っている子供たちが沢山いる。お父さんはそうした子供達を助けにいってあげ
る仕事をしているんだ」
 優しい口調で父親は言って来た。子供が怖がらない程度の優しい口調だ。先程、医療施設
にいた子供たちに向けていた父親の声と似ている。
「今度は、いつ会えるの?お父さん」
 アリエルは困ったような声をして言った。そして、愛している者が遠くへ離れて言ってしまう時
に感じる切なさ、そしてそれに対してどうしようもないという意識を抱く感情が流れ込んでくる。
「なるべく早く帰ってくるつもりだ。困っている子供たちが少なければ少ないほど、お父さんは君
と会える。だけれども、どうやら今度行く場所は、とても困っている子供達が多いところなんだ」
 と、ベロボグは言い残した。
 すると風景は切り変わっていく。デジタル動画を早送りしているかのように、次々と映像が切
り変わっていき、やがてログハウスの中の姿となった。
 窓の外から見える景色が雪に覆われている。どうやら、季節が移り変わったようだ。
 ログハウスの居間で、父親と、養母ミッシェルが向かい合わせに座り、対面していた。
「あの子のためにも、あなたはもっと頻繁には来れないの?わたし達は夫婦ではないけれど
も、アリエルを愛しているという事は変わらないわ」
 今より、10歳は若い姿をした、アリエルの養母が父に対して言っていた。
「駄目だ。スザム共和国の内戦が終わる気配は一向に無い。難民はどんどん増えているし、テ
ロの攻撃も活発化した」
 父の声は幾分も真面目なものとなっていた。顔も深刻な表情をしている。
「その巻き添えになった子供達の事を思うのは分かるわ。でも、あなたは十分すぎるほど働い
ているわよ。あなたの病院の功績は、世界的に評価をされているほど。別の人に行かせたら
どうかしら?」
 夫婦ではない。だが、父親と養母はお互いに信頼し合っているかのような口ぶりで話してい
た。
「駄目だ。内戦地からやってきた難民の子供達を見ていたら、とても見て見ぬふりをする事な
どできない。もちろんそうした子供達の治療をしてあげる事も大切だろう。だが、それだけでは
足りないと言う事も私は知っている。変わらなければならないのは、この国であり、そして世界
だと」
「あなたにとっては、それがアリエルよりも大切なことなのかしら?」
 ミッシェルは言った。
「アリエルも含めてだ。それと、最近、『スザム共和国』からの避難民の中に変わった子がいて
ね。その子は口を利く事ができないのだが、どうやら『能力者』らしく…」
 父はそこまで行ったところで言葉を切った。
 そしてこちらを向いてくる。その視線の先にはアリエルがいた。アリエルはこっそりとログハウ
スの二階に通じる階段から、父と養母の会話を見ていたのだ。
「アリエル。部屋に戻っていなさい。子供が聴く話じゃあない」
 乱暴な叱り方ではない。だが、父親の顔はとても真面目なものだった。養母も同じような表情
でこちらを向いてきている。
 アリエルは、ログハウスの二階にある自分の部屋に戻らざるを得なかった。

 また景色は移り変わった。再び春だった。ログハウスの中には、父と養母がいた。
「あなた。一体、どこへ行っていたの!ベロボグ。あなたの娘はもう5年もあなたに会っていな
いわ。それに、彼女の母親も見つけて来てくれると言っていたわよね?一体、何を?」
 養母はそのように言い放つのだが、ベロボグはミッシェルの肩を半ば乱暴に掴んで言い放っ
た。
「シャーリが左目を失った。左腕も失いかかる所だった」
 そのように言い放つ父の姿。鬼気迫るかのような表情だった。
「それは気の毒に思うけれども、シャーリを『スザム共和国』に連れていったのはあなたよ。例
え、彼女が自分の意志で慈善行為に走ったとしても、それを守るべきはあなたの責任なんだ
わ」
 養母の言い放ったその言葉は、冷たい感情を放っていた。ベロボグに全ての責任があるか
のような口調だった。
「君にはまだ言っていなかった事がある」
「一体、何?まだ何かあるの?」
 養母の声がそのように冷たく開き、父は隠していた事を打ち明け始めた。
「シャーリは私の娘だ。アリエルと母親は違う。私が初めて『スザム共和国』に行った時に知り
合った女性との間にできた子だ。そして、その母親は戦犯として共和国防衛隊に処刑された」
 その言葉を聴いても、養母はあまり驚かないようだった。代わりに冷たい言葉を父へと向け
て放っていた。
「驚くべき話ね。でもそれが本当だとしたら、あなたは娘を自分のしている危険な行為に巻き込
んでいる事になる。責任はずっと重いわ」
 その言葉に対して父は何も答える事ができないでいる。あたかも、そう言われても当然であ
るという事を自覚しているかのように。
「知ってる?アリエルは、《ボルベルブイリ》の高校に通わせる事にしたわ。この田舎じゃあな
く、きちんと都会に行くの。寮のある高校だから、あの子は都会で暮らす事になる。あなたと会
える機会ももっと減るわ」
 養母の心配事は父親にあるのではない、自分自身にあるのだという事がはっきりとしてい
た。父が遠い地で何をしていようと、それは母に取って関係の無いものであって、アリエルが父
親と会うという事を何よりも大切としていると言わんばかりだった。
 だが父はそれよりも、遥かに大切な事であるかのように力説する。
「アリエルには迷惑をかけない。だが、私はある計画を思いついた。その計画が実行されれ
ば、皆に平等な平和が訪れるはずなんだ」
 どこかで聴いた事がある言葉だ。父はその言葉を、こんなに昔から言っていたのか。居間に
比べて威厳も少ない。若い革命家であるかのようだ。
「まるでどこかの革命家ね。でもはっきりとしている。あなたはアリエルよりも、自分の仕事の方
が大切なのよ。あの子と会う気が無いのだったら帰ってもらいたいものだわ」
 と、養母は言うのだが、
「だが、その計画の事を、他の者たちに知られるわけにはいかなくなった。もちろん。君達に
も、私がここに来ている事を知られるわけにはいかなくなった」
「何を言っているの?あなたは?」
 父のその言葉に、養母は思わず身構えていた。
 すると父は自分の背後に合図をする。すると彼の背後から、一人の女性が現れた。それが
誰であるのかはすぐにアリエルにも分かった。
「彼女は、以前に話したように、『能力者』だ。君達を傷つけるような事はしない。ただ、君達の
記憶が計画にとっては一時的に邪魔になってしまう。だから、一時期、抑制させてもらおうと思
う」
「何を言っていると、言っているのよ、わたしは!」
 養母は思わず立ち上がって、父に向かって言い放っていた。
「傷つけるわけではないのだ。ただ、君達は、彼女が再びこの行為をするまで、私達の事は思
いだせなくなる。アリエルは父親がいたという事を忘れ、君も私の存在は思い出す事はできな
い。アリエルが学校に通い普通に暮らしていくというのならばそれも良いだろう。だが、それは
計画が動き出すまでだ。
 それまではアリエルにも普通に暮らしてやらせたい。シャーリの様に残酷な目には合わせたく
ないし、娘たちにも二度とそんな思いはさせない」
 父はそのように言い、養母の手を掴んだ。その力はかなり強いものであったらしく、彼女は腕
を振りほどく事が出来なかった。
 やがて、数年前、アリエル達のログハウスにいたブレイン・ウォッシャーが養母の頭に触れる
と、そこからはほのかな明るい光が溢れだす。
 養母は意識を失ったかのようにその場に倒れ、父は大きな手で彼女の体を抱えるかのよう
にして支えた。
「すまない。これも皆のためだし、君達自身のためでもあるのだ。ブレイン・ウォッシャー。アリ
エルにも同じ事をしろ」
 父がそのように言うと、ブレイン・ウォッシャーは黙って頷いていた。

 この記憶は、確かなものとして実感がある。夢や幻覚のように誰かに見せられているというも
のではなく、確かに自分の中に内在している記憶なのだと言う事が、アリエルにははっきりと自
覚する事ができていた。
 これが事実であれば、父は自分達の計画と言うもののために、アリエル達の記憶を消してい
たのだ。
 本当はアリエルは自分の実の父親の存在を知っていた。しかしながら、それが消されたかの
ように抑制されており、アリエル自身も、記憶が消えていたと言う事を実感する事ができないで
いたのだ。
 これに対して、どのような感情を抱けば良いのか、アリエルには分からなかった。
 怒れば良いのか。だが、父には何かの思惑があるようだった。アリエル自身、もしかしたら父
親によって、記憶を意図的に消されていた事によって、今まで幸せに暮らしてくる事ができたの
かもしれない。
「これから、あなたには、とても残酷なものを見せる事になるかもしれない」
 突然、どこかから女の声が聞こえてきた。それは聴いた事のない女の声だった。
「あなたはだれ?」
 アリエルは記憶の中でそのように言っていた。
「あなたに記憶を見せている人間。普段は話せないけれども、こうしてあなたの頭を通して意思
を伝える事ができる」
 それが、父によってブレイン・ウォッシャーと呼ばれている人物のものであるという事はアリエ
ルにも分かった。彼女はこの記憶の中でも登場してきている。
「大丈夫。覚悟はできている」
 アリエルはそのように言ったのだったが、
「本当にそうかしら」
 と、言ってくる声と共に再びアリエルの記憶はどこかへと流れた。そこはアリエルにとって知ら
ない場所であった。
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