レッド・メモリアル Episode24 第7章



 アリエルは、自分の目の前に突きつけられた、巨大なパズルを一心不乱に解いていた。何故
か、この膨大な情報量を前にしても、それを解いていくことで不思議と心が落ち着くのだ。
 あまりに集中してしまっていて、いつしかそれが、快感にさえ変わってしまっているのではない
だろうか。
 外からの情報は全く入ってくることがなく、ただ、アリエルは目の前のプログラムを正しい形へ
と戻そうとしている。
 彼女は静かな世界にいた。ただ、滝のように流れていくプログラムの赤いライン、そしてアリ
エルはそこにいる。まるで繊細なガラスが、ゆっくりと擦れていくような音の滝であるかのようだ
った。
 アリエルはただ一人、その空間にいるかのような錯覚に陥っている。本来ならば同じ部屋に
リーがいるはずなのに、アリエルは、彼の存在さえ忘れてしまうような錯覚に陥っていたのだ。
 もう少しだった、あと少しでこのプログラムを元通りにできる。『エレメント・ポイント』を安定化
させることや、彼女が与えられた任務といった事は、もはやどうでもよかった。今、アリエルはこ
のプログラムの中に身を投じること、それがあたかも暖かいぬるま湯に身を投じているかのよ
うに感じてしまっていた。
 永遠にこの場所にいても構わない。そのように。
 やがて、アリエルは最後のプログラムを解き終えた。複雑な光学画面のプログラムは完全な
形に戻り、美しい光のラインが完璧な形で構築される。
 父が組んだように、元通りの姿に、プログラムは戻っていた。
 これで、『エレメント・ポイント』は正常に動き、エネルギーの安全装置は働く。エネルギーの暴
走を抑えることができる。
 アリエルは、自分の目の前に滝のように流れる光に、ただぼうっと、焦点の合わない目を向
けていた。浸っていたのだ。自分がこのプログラムを解いた。
 それが、この世のどんなことよりも素晴らしいものだと思ってしまっていた。
「アリエル、アリエルよ。よくぞ果たしてくれた…」
 その声が、アリエルの前へと聞こえてくる。もうその声はよく知っている。
 アリエルの目の前に、その人型の像が出来上がる前から、誰が現れるのかが分かってい
た。
 やがて、電子の糸がそこに立体的な存在を作り上げていき、形を構成していく。
 目の前に現れたのは、自分の前で死んだはずの父、ベロボグ・チェルノだった。
「あなたは」
 すこし不意を疲れたかのような気持ちだったが、アリエルは自分の目線よりも少し高い位置
に浮かんでいる、その父の像に戸惑いは感じなかった。
「さすが私が見込んだ娘だ。よくこの偉業を成し遂げてくれた。ここから新しい世界が始まる。
誰も見たこともない、新しい世界がな」
 少しぼうっとした焦点の合わない目で、父の像を見てしまったアリエル。だが、彼女の前に現
れたその存在は、アリエルに現実感というものを呼び覚まさせた。
 目の前に現れたのは、本物の父ではない。
「私は、ただ使命を果たしただけ」
 感情を込めないような声でアリエルはそう言っていた。
「そう、それは重大な使命だった。お前が背負うにはまだ若すぎるかと思ったが、そんな事はな
かったようだ。お前は十分に使命を果たしてくれた。この世界を新しい段階に押し上げるという
使命をな」
 だが、ぼうっと、父の像を見ていたアリエルは、途端にあることに気がつく。今、目にしている
のは、父の本当の姿ではない。
 彼はすでに死んでいる。まるで遺書のようにプログラムをここに残したに過ぎないのだ。
「さあ、アリエル。これからの時代を押し上げるために、共に来るのだ」
 そう言って一日は手を伸ばしてくる。
 アリエルにははっきりと分かった。この手を取れば、自分はもう二度と、元の世界の方へと戻
ることはできない。
 だが、もし跳ね除けるのならば、それは父の期待を裏切ることになるが、元の世界へと戻る
ことができる。
 そこには自由がある。果たして父が与える世界には、そのような自由というものがあるの
か?アリエルには分からなかった。
「私、私は…」
 アリエルは戸惑う。今、彼女が見ている世界は、今まで自分が見てきたどの景色よりも素晴
らしい。ここには望むものが何でもある。アリエルをすべてが受け入れてくれる。それもわかっ
ていた。
(アリエル…!アリエル!)
 だが、アリエルを呼ぶ声があった。
 誰の声か、アリエルにはすぐに分からなかった。それが誰であったか、アリエルは忘れてしま
っている。
「さあ、来るのだ、アリエル…」
 父が更にアリエルを誘ってきた。ここから先、一線を越えるようなことがあれば、彼女は二度
と戻ることはできないだろう。それが彼女には分かっていた。
 自分の養母とともに有りたい。あの平穏な生活を取り戻したい。革命も、新しい世界もいらな
い。自分の居所。
 それは、元いた場所だった。
「どうしたの、さあ、お父様の理想郷はここにあるのよ?」
 と、レーシーが言ってくる。レーシーはいつの間にかアリエルの背後から近づいてきていた。
そっと、彼女がアリエルの肩へと手を載せてきている。
「行けないよ」
 アリエルはそっとそのように言った。しかしながら、それはしっかりとした彼女の決断だった。
「それが、君の決断なのか?アリエル」
 べロボグの姿がそうアリエルに言ってきた。その深い顔立ちの奥の瞳が、どこかもの悲しげ
なものにアリエルには写る。
「それが、私の決断。ごめんなさい。あなた達と共に行く事はできない。私は革命や、新しい世
界よりも、穏やかな暮らしをしたいの。おかあさんといっしょに、静かなところで、争いも、何もな
い、平和に。
 そもそも、今、この目の前にいるあなたは誰?私は、もともとお父さんなんていないと思って
いた。それが、一ヶ月前、突然現れて、そして、もうすでにあなたはこの世にいない。あなたの
元は、私の生きる道ではないの」
 それが、アリエルの素直な意志だった。包み隠すこともなく、彼女は今、はっきりと自分の意
思を父へと伝えた。
 それは一ヶ月前に初めて会ったばかりの父と、別れることを意味していた。父と共に歩みを
進めることを止め、元の場所へと戻る。
 それがアリエルの決断だった。
「そう、残念ね。あなただったら、偉大な、お父様の後継者になることができたのに…」
 アリエルの背後から、残念そうにレーシーが言ってくる。
 すると、アリエルの目の前から、突然、赤い空間が切り離されていった。まるで、川の流れが
一気に引いていくかのように、アリエルの目の前から消えていってしまう。
「あ、待って…」
 アリエルは手を伸ばし、去っていく画面、そしてその上に載った父の像へと手を伸ばそうとす
る。だが、それは捉えることができない靄であるかのように消え去ってしまう。
「残念だよ、アリエル。実に。だがやはり、お前には重すぎたのかもしれない…。このプログラ
ムは自動的に削除される。もう二度とお前に会う事もないだろう…」
 父のその言葉に向かって、アリエルは手を伸ばし続けた。だが、それが届くはずもなかった。
 遠い彼方へと、父と、そしてレーシーが消え去っていってしまう。そこへと向かって、アリエル
はずっと手を伸ばし続けたが、そっと、誰かの手が、伸ばす手を止めさせた。
「もう、いい、いいんだ。アリエル」
 そっとそのように背後から言ってくる声。それはリーのものだった。
 アリエルはただ、目の前の落ち着いた真っ白な壁面へと手を伸ばしたままだった。
 やがて、彼女達の頭上で何かが崩れる音、そして、一気に水が流れ込んでくる嵐のような音
が迫ってきた。
 すでに、アリエル達のいる一室の中は大きく傾きだしており、海中へと沈んでいっている。も
はや脱出は不可能だった。

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